眠り続ける旧支配者。

『ANGEL FOYZON』読んでて思った。
つまるところハルヒはアザトースだと。
キョンランドルフであるのかナイアルラトホテップであるのかは定かでないがどちらかといえば後者。で、あえて語るなら同人二次創作はダーレスでありシュルズベリィ。

アザトースに正当性を求めることが無駄なように、外なる神々の常識は人間の感覚で理解できるものではなく、ハルヒに内省を求めることは徒労でしかなく、つまるところSAN値が残っている状態で読むものではないと。
エンジェルフォイゾンやデモベの流れに属する萌えクトゥルーだと割り切って読めばパソ研その他の傍若無人は萎え要素ではなく静かな狂気につながると。
あいにく俺は銀の鍵の門の向こうにも狂気山脈の向こうにも行けなかったが。

まあ今さら書かなくてもあちこちで言われてることだろうけどな。
http://haruhi.sonnabakana.com/log/24.html#R301
>339はキョン=アザトース説だし。

それでも萎える俺は鋭角から出てくるものに怯えて積み本積みゲー崩すとしますかね。

恋は戦い。

エロは食玩のお菓子でもいいじゃん。
http://blog.goo.ne.jp/kamimagi/e/122906e2f81dd82d17358e5363dd92db

 モノーキーさんより。

 サターン版『DESIRE』のようにオマケを外すことによって中身自体が変わってしまった場合もあるわけで、この論理はグリコキャラメルやスポロガムのように「オマケとお菓子が完全に分離された商品」であることが前提になる気がする。エロに至る「過程」が本筋に絡んできっちりあるならば、エロを抜く際にはなんらかの「手術痕」が残るはずなんだけど……最近の手術ってほんとうにすごいね(ぼうよみ)。
 

 つーかさ、最近の純愛なエロゲのエロシーンの異常な濃さって絶対エロゲ論壇の連中に業界人が騙されてるだけだと思う。
 俺も含めて自分の言いたいこと言い逃げするような連中の意見には作り手が耳をかしちゃいけない。
 ユーザーがそれを読んで楽しむのはアリだろうけど。
 中間管理職な人でエロゲ論壇の意見がユーザーの総意だと勘違いしてるひとも居るだろうと思うので。
 当たり前のことだけど文字に記しておく。 


 「ちしきじん」とか「しきしゃ」に受けようと妙な反戦シフトや政治シフトになっていく映画監督とかクリエイター諸氏ってこんな感じなのかもしれないなあ……、と思った。

 「恋愛は戦争だ」なんてよく書いてるけど、エロゲと戦争映画もまた似ている*1と私は思っている。
 純愛ゲームにおける争奪戦は主に「きれいな戦争」であり、つまりはアメェリカンな戦争映画スペクタクル。敵艦をまっぷたつにへし折り、断末魔の火柱とともに海中に葬り去るまでの世界。その後の描写、重油まみれで浮いている乗組員に戦闘機部隊が機銃掃射をかけるような詳細すぎる描写を受け手は求めているのだろうか。あるいは作り手はどうしても描きたいのだろうか。戦闘と虐殺の境界線のように「純愛」と「濃厚すぎて萎えるエロシーン」の境界は曖昧だ。バランスは何処で取るのがベストなのだろう*2


 ……って、戦争映画パロディのエロゲって案外面白そうだな。反戦戦争映画ならぬ反恋愛エロゲ。露骨すぎるのはつまらないのでじわじわくるやつ希望。
 恋愛相談みたいなラジオやって、傷だらけのリスナー癒して、でもやっぱり無理があって、なんて『グッドモーニング・ベトナム』的エロゲ誰かつくらねえかな。幻想なんて欠片もねえの。売れないだろうけどw。


追記:
>この論理はグリコキャラメルやスポロガムのように「オマケとお菓子が完全に分離された商品」
この対極にあるのが「チョコエッグ」のようなものだという認識で私は書いている。あるいは入浴剤に埋め込まれた人形など。もっとも、完全に分離していようとも、ビックリマンやライダースナックという歴史もあるわけなので、純愛ゲームのセーブデータ拾ってきて回想だけ楽しむという人もいるかもしれない。

*1:もちろんバリエーションはある。「きれいな戦争」、手に汗握るスペクタクルを望むのか。それとも「きたない戦争」、残酷な現実を訴えようとするのか。「きれいな戦争」に潜む欺瞞を描くのか。「きたない戦争」であっても譲れないものを描くのか。つまり、純愛の過程を描くのか。淫蕩でドロドロな交わりと繋がりを描くのか。純愛の陰の利害を描くのか。依存と肉欲の中芽生える何かを描くのか、と。

*2:この論理には、萎えるほどエロくないにせよ、とらハのような「その後」を含むエロゲを擁護できないという欠陥がある。「境界線」によって調整はできるが苦しいことは否定できない。